投資家にとってのナッジとグリットとは
・かつて大学院で行動科学を専攻した。今でいう行動経済学、行動ファイナンスである。当時、期待効用理論に基づく “平均値は高く、バラツキ(分散)は低い方がよい” という原理で、ヒトは必ずしも行動していないということを実験し、ポートフォリオ構築の新しいモデルを考えてみた。
・ヒトは合理性を求めているが、常に合理的に行動するわけではない。情報は完全でなく、認知能力にも限界があり、努力にも限りがあるので、合理性もその範囲に限定される。この限定合理性の中で、一定の満足度を求めるというサイモン流の考えには今でも共感する。
・トヴェルスキーとカーネマンの論文を読みながら、佐伯胖先生のもとで、同僚が実験をして、私はマルコヴィッツのポートフォリオの最適化を別のモデルで解いてみた。当然、最適ポートフォリオが違ってくる。
・その後、1980年代から行動経済学が大きく発展し、2010年には日本でも行動経済学会がスタートした。その10周年を記念して「行動経済学の現在と未来」が出版された。それを読んで、今後の投資の世界で役立つこと、IRの参考になることをいくつか取り上げてみたい。
・セイラーのナッジ(気づき、誘導)は、よく知られている。ヒトの行動には現状維持バイアスがある。合理的な決定と現状の決定との乖離であるバイアス(偏り)がある時、選択肢のうち、現状の延長線にとらわれがちである。この時、何らかのデフォルト(参考となる初期設定)をおくことで、望ましい決定や行動に導こうというものがナッジである。
・市場は必ずしも効率的ではなく、投資家はいつも合理的とは限らない。常に何らかのバイアスにとらわれ、悩まされている。それは、ファクトとしての情報のギャップだけでなく、心理的なバイアスも含んでいる。
・疑り深いのは望ましいことかもしれないが、思い込みや早飲み込みでは不利になる。常にギャップ、バイアスについて、認識を共有していく作業が必要である。
・ナッジ(誘導)は、さまざまな場面でありうる。ヒトが合理的に行動するには何らかの判断基準が必要であるが、先が読めない場合や今の指標を見落としてしまう場合もある。その時、デフォルト(初期値)をどこに設定するか。判断基準の参考値を出しておくことはそれなりに意味がある。
・しかし、これには注意も要する。善意をもって参考となる指標を出すことで、適切な導きに資することができる一方で、特定の意図をもって、別の判断に誘導することもできる。ヒトの特性の分析し、その活用を考える場合、悪用することもできる。
・生活習慣病への対応、健康維持のエクササイズ、健康食品の選択、エネルギーの節約、金融商品への投資、自然環境や安全の確保など、さまざまな場面が想定される。ヒトは面倒くさがりで、怠けものでもある。最初はナッジを新鮮に受け止めても、そのうち慣れて効かなくなってしまうことも多い。
・行動を変えることがどれだけの価値を持つのか。認知バイアスに絶えず訴えていく必要がある。スイッチングコストを手間に思うので、ここにどう訴求していくか。大事なことは、金銭的なインセンティブとは別に、ナッジをどう認識し受け止めていくかである。
・リスクをいかに回避するか。これもヒトによってかなり違う。リスクをとらなければ、リターンはない。リスクを避けるほど、現状のままになってしまう。しかし、それが本当にリスク回避になるのか。
・正確な情報があればあるほど、合理的な選択や行動がとれるのか。そうとも限らない。リスク回避的なヒトほど、特定のがん検診を受けにくいというデータがある。受診しない方が、そのヒトの効用が高くなるからである。
・将来の健康は大事であるが、現在の手間や負担の方を優先してしまうことも多い。これは、時間選考において、リスク回避的なヒトの方が、時間割引率が高いといえる。将来の効用を高い割引率で現在価値に割り戻すと、その効用が小さくなってしまう。そのヒトにとっては、今の方が大事で、それは合理的なことになってしまう。
・本来望ましいことをすぐに実行せずに、先延ばしにしてしまうヒトも、こうした傾向が強い。では、どうするか。デフォルト(初期設定)を変更する工夫がナッジとして必要である。
・時間割引率が大きいヒトは、将来の健康の利得や長期投資の利益を過小評価して、現時点の費用や目先の利益を優先してしまう傾向が強い。何らかの形で、将来の利得の方が大きいということを認識してもらうようなサポートが必要であろう。つまり、将来の利益を大きくみせて理解を深めることが大切である。
・行動を望ましい方向に変えるには、1)目標設定がモチベーションを高めるようにすること、2)理想と現実のギャップを埋めるようなプロセスを持ち込む工夫をすること、3)利得と損失のメカニズムをはっきりさせること、などが必要であろう。
・ヒトの情報処理と意思決定には二面性がある。1つは、直観的で、自動的で、効率的で、努力を要しないものである。もう1つは、熟慮して、意識して、分析して、努力を要するものである。
・前者は、高速で、後者は低速である。マーケティングサイドとしては、どこを狙うのか。投資家であれば、どんな投資態度をとるのか。ここもよく見極めたい。
・現代ポートフォリオ理論(MPT)は、正規分布を暗黙の前提として、確率分布が分かっているリスク下の意思決定として、平均値は高い方がよく、分散は小さい方がよいというモデルを基本とする。
・しかし、ヒトは宝くじように当たることが極めて低いことを過大に評価し、比較的よく起こることを過小に評価する傾向がある。確率を歪めて認識しているともいえる。期待効用を非線型に捉え、確率分布を重み付けでみる必要がある。トヴェルスキー・カーネマンのプロスペクト理論は、これを実証的に表現したものである。
・1) ヒトは皆エコノミックパースンで、違いは状況や環境によって生まれると考えるのか(MPT型)、2) ヒトは期待効用を最大化したいとしても、その効用のとらえ方が、エコノミックパースンとは別にみているのか(プロスペクト型)、3) そもそもヒトの効用の感じ方は一人ひとり違うとみるのか(新しい型)によって、モデルが違ってくる。
・CAPM(資本資産価格評価モデル)では、過去のデータから平均リターンとβの関係が線形であるかをまず確認する。これを前提としてCAPMが使われているが、これでは現実を十分説明できないことが分かっている。
・この点をAIはどう扱うのか。従来の規範モデル(期待効用に基づくCAPM)や、限定合理型モデルに頼る必要はなく、y=f(x)のfをニューラルネットワークとして捉え、既存の統計的手法に拘らない。機械学習として、多変量のxを例えば正則化最小二乗法(LASSO)で選択し、予測可能性を高めようとする。
・一方、行動経済学は、グリット(Grit:やり抜く力)に着目する。長期的な目標達成に向けてのやり抜く力である。このグリットは、持って生まれた才能や知能ではなく、後天的に獲得した能力である。やり抜く情熱や粘り強さは伸ばすことができる。目の前の困難や誘惑に負けることなく、抗う能力はいかに養うのか。
・これを身に付けたヒトは強い。それを育てる組織も強い。いかにしてグリットを手に入れるのか。言葉でいえば平易である。①興味を持たせ、②訓練し、③自分のためではない利他的な目標をかかげ、④希望を持ち続ける、ことである。
・言うは易く行うは難し。まさに、その仕組みが問われる。自分のためだけでは、努力は続かないので、世のためヒトのためという大志が必要である。また、努力は報われるという希望がなければ、エネルギーは続かない。この組織能力に注目したい。
・組織の在り方も問われる。市場メカニズムの他に、公共メカニズムがあり、近年は共同体メカニズムが一段と重要になっている。個人、企業、NPO、公共機関、政府などと、どのように付き合い機能させていくのか。
・自らの効用極大化でよいのか。利他の効用はどのように織り込んでいくのか。功利主義、社会的厚生、道徳的義務や徳としての倫理とは、どのように折り合っていくのか。
・個人の効用だけでなく、社会や共同体への貢献による充実感も善く生きることにつながる。その根幹となる徳には、勇気、正義、人間性、節制、智慧、超越の6つが普遍的である見方も有力である。
・新しい価値創造の仕組みとして、どの組織においても、1)ヒューマンキャピタル2)ソーシャルキャピタル、3)スピリチュアルキャピタルを再考してみる必要があろう。企業のCSRをもう一度つき詰めてほしい。投資家としては、自らの投資行動を見直すとき、行動経済学のアプローチを大いに参考にしたい。