ホンダジェットの創業者精神とマネジメント

2018/09/03

・7月に一橋ビジネスレビュー・フォーラムで、ホンダエアクラフトカンパニーの社長兼CEOである藤野道格氏(本田技研工業、常務執行役員)の講演を聴いた。藤野氏は現在58歳、東大工学部航空学科を出た後、一貫してホンダジェットの開発をリードしてきた。その開発ストーリーに本当に感動した。そのさわりにふれてみたい。

・ホンダはオートバイから自動車、そして航空機へと展開している。自転車に付ける補助エンジン(冷却2サイクル、通称バタバタ)を開発したのが1946年、本田技研工業を設立したのが1948年、四輪車に進出したのが1963年であった。オートバイをスタートさせて15年を経て、自動車に参入した。後発であった。

・二輪車のスーパーカブは世界的ヒット商品であったが、自動車でも低公害エンジンCVCCを載せたシビックが米国で大成功した。ホンダが航空機の研究を開始するのが1986年、そして初フライトが2010年であった。本田宗一郎氏は1983年に取締役を引退しており、最高顧問として1991年に85歳で亡くなった。筆者が自動車アナリストをしていた頃はまだ70代後半で、飄々として新車発表会にも気軽に顔を見せていた。

・1986年は藤野氏がホンダに入社して2年目、自動車部門でエンジニアをスタートさせて間もない頃であった。航空機プロジェクトに召集され、それから現在に至るまでホンダジェットの開発、商業化に関わってきた。

・宗一郎氏は、ホンダが航空機プロジェクトを開始したことを知っていたのか。当時は、極秘プロジェクトであったので、知らせていなかった。知らせたら、絶対プロジェクトに入りたがるので、黙っていたという。宗一郎氏にとって、飛行機はまさに夢だったのである。

・当時のホンダの経営陣は、ホンダ独自の飛行機をゼロから開発するように、とプロジェクトチームに指示した。飛行機の開発と認定は極めて難しいタスクである。新規参入が困難で、投資回収にも長い期間を要する。自動車よりもはるかに難しくリスクが高いと考えられた。

・どういう差別化を考えたか。カギは小型高性能にあった。高速で低燃費、広いキャビンを確保すれば、需要はあると考えた。常識で、そんなことは実現しえない。藤野氏は、ジェットエンジンを取り付ける場所を、ありえないところに空想した。全く新しいアイデアを、カレンダーの裏紙に描いた。主翼の上面に載せるという非常識である。

・ホンダジェット構想から6年、2003年12月に初飛行に成功した。しかし、これは実験機で、事業化の計画は全くなかったという。2005年にホンダジェットを公開して、経営陣の判断を待った。市場のポテンシャルが大きいと分かってきて、事業化への舵がきられた。2006年3月、ホンダの福井社長は、ホンダジェットの事業化をゴーと決断した。

・ホンダジェットはビジネスジェットである。どんな人が買うのか。資産20~30億円以上を持っている中堅企業のオーナーが使う。それまでの小型ビジネスジェットは、狭い、遅い、うるさい、というハンディがあった。これを広い、速い、静かに変えた。当然売れる。2017年には小型ビジネスジェットでデリバリー№1となり、多くの賞を取った。

・イノベーションの極致は、主翼の上にエンジンを置いたことである。これで胴体のスペースが広くとれる。エンジンの音が伝わらないので静かになる。困難といわれた空気抵抗を、その緩衝を全く新しい方式で下げることに成功した。

・販売とサービスのネットワークは一気に作り上げた。直販ではなく、ディーラーを使う。2年半で世界の9割近い地域をカバーできるようにした。ブランドを一本化し、ワールドスタンダードでカタログを用意し、セールスを展開した。

・月産4機の体制をとっている。全てITで結んでいる。事業のKPIは、リアルタイムで見ることができる。塗装には自動車のロボット技術を応用している。ノースカロライナ州にある本社で、R&D、生産、トレーニングを一本化している。社員は40カ国以上の国籍を持つ人々の集まりで、1800人である。

・2006年に事業化を決定した後、会社を設立し、工場建屋を作った。認定をとるためには、量産機が必要であり、そのための図面、部品、組立てにすべて承認を必要とする。2010年にファーストフライトを行い、ここから認定を取得する作業に入った。70カ所について検証を受け、3000時間の飛行体験を実証してみせた。

・会社のマネジメントに当たっては、フラットでオープンな組織を作るようにした。必要な階層よりレイヤーを1つ少なくした。会議はできるだけ開かないと決め、必要なことは自分で動かざるをえないようにした。現場、現物を重視して、現場を見て状況を判断するようにした。その方が、ものごとが素早く動くからである。

・航空機のマネジメントは特殊である。テスト、計測、シミュレーションの総合技術である。リーダーは調整役ではない。日本のような調整型リーダーでは飛行機ビジネスはまとまらない。すべてを学んで、基準に従って、決断する力量が問われる。複雑システムなので慣れ合いはきかないと藤野氏は強調した。

・マネジメントに普遍性はない。開発プロジェクトチーム40人の時、会社がスタートして400人になった特、そして現在1800人の時で、マネジメントの内容は大きく変化している。チームワークは大事であるが、日本と米国ではそのあり方が全く異なる。

・日本のチームワークは、自分の主張を相手に合わせる。野球でいう犠牲バントが求められる。米国では、自分の力を発揮して、組織の目的にプロとして貢献する。専門性を売りにするので、別の会社でもすぐ使える。

・その米国でも注意することはある。優秀な人が入ってくると、その人を潰そうとするので、マネジメントはこれをよくみていく必要がある。政治的に動く人も出てくるので、これも見ていく。40カ国出身の1800人をどうマネージするか。とにかくフェアに評価することであるという。

・航空機産業は、米国の産業である。ルールブックもプロの人材も全て米国人がリードする。ここで勝つ必要がある。成熟産業にイノベーションで持ち込む。当然、既存メーカーからのバッシングを受ける。これをいかに乗り越えていくかが問われる。

・藤野社長の体験において、1)飛行機プロジェクトに入って、まずミシシッピーの飛行機工場で1年間現場にいた。2)新しい飛行機のインスピレーションを大事にした。3)初飛行の後、事業化は困難と思われたが、待っている客が世界にいると知った。4)実験機を航空ショーで見せたら、世界で認められた。5)事業化が決まったら、1日で受注が100機も入った。6)そして、2015年12月に型式認定がとれた。7)宗一郎氏の夫人に報告したら、もし生きていたらどんなに喜んだことか、と言われた。

・画期的な技術革新を自らリードし、それをマネジメントとして、事業化までもっていって成功に導いた。企業内ベンチャーとして稀有な例である。そこには、ホンダイズムが見事に生きている。創業者精神をいかに受け継ぎ発揮していくか。ホンダジェットにぜひ乗ってみたい。

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