カンボジアの発展に向けて~かつてポル・ポトはどうして同朋300万人を殺したのか
・カンボジアでは7月28日に、5年に1度の総選挙が行われた。今のフン・セン(Hun Sen)首相の人民党が政権与党を継続する。振り返ると、1997年ラナリット第一首相とフン・セン第二首相派の軍隊が武力衝突し、人民党のフン・セン派が勝利した。98年の総選挙で人民党が多数となり、フン・センの新政権が生まれた。その年にポル・ポトが死亡し、クメール・ルージュが解体した。1951年以来のカンボジア共産主義運動が終止符を打った。その後、2003年、2008年でも人民党が勝利し、圧倒的となった。
・ほとんど一党独裁で、フン・セン(62歳)首相は長らく戦ってきた第一世代である。カンボジアの経済は、外資の導入で発展している。GDPは7%のペースで伸びている。アセアンの一員として、今後どのような政治を行っていくのか、その行方が注目される。
・1863年、カンボジアはフランスの植民地となり、1953年に独立するまで、90年間フランスの統治下にあった。独立後、シアヌーク殿下の下で中立国家としてスタートしたが、ベトナム戦争に巻き込まれ、南北対立の狭間に置かれた。親米派のロン・ノルが1970年にクーデターで政権を取ったが、その後1975年ポル・ポトがロン・ノルを倒し、共産主義革命を志向した。それは壮絶で、ポル・ポトは1975年から79年の4年間の間に300万人の同朋の命を奪った。
・しかし、1979年ポル・ポトはベトナム軍の侵攻と親ベトナムのヘン・サムリン政権の樹立で倒れ、タイ国境のジャングルに逃げて内戦を続けた。1991年に、パリでカンボジア和平協定が成立した。1993年に国連の監視下で総選挙が実施された。しかし、1年で連立は対立を深めた。
・まずキリング・フィールドに行ってみた。ホテルでメーター付のタクシーを呼んでもらった。若いドライバーは全く英語が分らない。市内から12㎞ほど離れた場所に、ポル・ポト派が2万人を虐殺した現場がある。そこを英語でキリング・フィールドという。何もないところに記念の塔が建っており、中に頭蓋骨が山のように置かれている。6米ドルを払って中に入ると、日本語のレシーバが渡され、何があったのかの解説がスポットごとに続く。
・そこを見学した後、市内に戻り、トゥール・スレーン博物館に入った。2ドルである。ここは元々学校の校舎であったが、ポル・ポトが2万人を殺すために、拷問を行った場所である。どうしてこんなことが起きたのか、狂気の世界である。
・ポル・ポトはパリに留学して、エレクトロニクス技術を学び帰ってきた。学校の先生をやっていた。毛沢東の考えに心酔し、共産主義革命を起こすことに力を入れた。仲間と共に親米派を倒した。その後、自分と一緒に戦った仲間もほとんど殺した。自分に絶対服従の者のみ残した。
・理想の共産主義国を作ろうとした。そのためには、原始農業以外はいらない。都市で生活している人間は全員邪魔である。知識人、テクノクラート、商工業者、その家族、農村から都市に出て行った者全てを抹殺することを考え、実行に移した。
・ただ無差別に殺したのではない。嘘の自白を根拠に詳細な情報を手に入れ、それを記録に残して一人残らず殺そうとした。都市にいる者の名簿から一人一人証言をとって、理想から外れていることを自白させた。嘘でも自白を強要し、家族、友人、知人の名前も全部言わせて、その彼らも同じ目に合わせて対象を拡げていった。
・その日学校に集めた人々を、毎晩、郊外のチェンエク村(12㎞離れたキリング・フィールド)に連れて行って、大半をその晩のうちに殺した。殺したのは誰か。親ポル・ポト派として、農村から集めた教育を全く受けていない若者である。将来は約束されているという共産主義を教えて、都市のゴミを処理することを命じた。殺された方にも、殺した方にも、生き残りがいるから、今はほとんどの全容がわかっている。現政権の意志も入っているので、全てが正しいとは言えないが、大局的には事実であるとみてよい。
・北ベトナムが勝利したので、ポル・ポトは山に逃げた。しかし、ベトナムに反対する国はそのポル・ポトを応援した。米国もフランスもポル・ポトを認めて、カンボジアの国連代表はポル・ポト、シアヌークなど反共産同盟から出ていた。結局、ソ連が崩壊し、中国とベトナムが落ち着き、米国がベトナムとつき合うようになり、ポル・ポトが死んでカンボジアは元に戻った。ポル・ポトは82歳まで生きた。仏語はもちろん、英語も出来たので、ボイスオブアメリカをずっと聴いていたという。孫を可愛がって、山で暮らしていた。何の不自由もなく君臨したという。驚くべきことである。
・300万人、人口の4分の1の人々が殺され、それが都市の人々であった。1980年から33年、かなりの人材不足ながら、カンボジアは復興を続けている。トンレサップ川とメコン川が合流する中州に大きなホテルが建設中である。川のほとりにあるヒマワリホテルからよく見える。川の反対側に歩いて行くと、独立記念塔が見えてくる。その近くの広場で、人民党の若者が気勢を上げていた。埃と排ガスにまみれながら、カンボジアの歴史と生活実感を垣間見たことは、今後のメコンの発展を考える上で、大いに参考になった。