スパークスのまいこばなしIFIS出張版 第6号 「企業価値に対する意識の変化~『Valuation』最新版を読んで~」

『Valuation6版の出版

2015年に、コンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニーの専門家による『Valuation』の最新版となる第6版が出版されました(Tim Koller, Marc Goedhart and David Wessels, Valuation: Measuring and Managing the Value of Companies, 6th edition, New Jersey, Wiley, 2015. 以下『Valuation』)。筆者の手元にあるのは2000年に発行された同書の第3版です。過去15年間でアメリカにおける企業価値評価の考え方にどのような変化が生じているだろうかと興味を抱きまして、最新版を注文しました。

実物を手に取った第一印象は、「重い」。2000年発行の第3版は22章から成る、500ページ弱の書物でしたが、第6版は35章、索引を含め約870ページの大著となっています。ここでは、筆者が関心をひかれた点を3点、ご紹介したいと思います。なお、これらの内容は必ずしも第6版で新たに書き加えられたものではなく、それ以前の版において既に記載されていた内容を含んでおります。筆者がたまたま第3版と第6版を比較して感じた違い、とご理解いただければ幸いです。

低金利下での無リスク利子率

1点目は、企業価値を評価する上で最も重要な要素の一つといえる、株主資本コストについてです。資本資産評価モデル(CAPM)では、株主資本コストは次の式で求められます。

 株主資本コスト=無リスク利子率+β×市場リスクプレミアム

実務上、無リスク利子率は、その株式が上場している国が発行する期間10年の国債の利率(たとえば、日本の上場企業を評価する場合には、10年物日本国債の利率)を使用することが一般的です。『Valuation』第3版でも「期間10年の国債の利率を使用することを推奨する」と記されています。しかし、日本の10年国債の利率は現在、マイナスです。アメリカにおいても、10年国債の利率は過去の水準に比して相当に低い状況で、このような市場環境下では、株主資本コストの算定に大きな影響を与える無リスク利子率をどのように仮定すべきでしょうか。

第6版では、2007年から2009年にかけて発生した世界金融危機に言及し、米国政府の金利引き下げ、国債買い入れ、さらに投資家の「質への逃避」行動の結果、2012年7月には米国10年債の利率は史上最低の1.5%に低下した、と説明した上で、株主資本コストの推定にあたって、金融危機前との連続性維持を困難にしている、と述べています。

 この問題に対処するため、第6版は「合成無リスク利子率」(a synthetic risk-free rate)の使用を奨めています。具体的には、期待インフレ率2.5%に、長期の平均実質利子率2.0%を加え、4.5%を合成無リスク利子率として提案しています。なお、この手法は「現在の低金利は、例外的な金融政策と質への逃避によってもたらされた一時的な異常事態であり、経済が通常に復すれば国債利率も過去の水準まで上昇する」との前提に依拠するものです。さて、おそらく2020年頃に出版されるであろう第7版では、本件をどのように解説しているでしょうか。

高成長企業の評価に関する一貫したスタイル

2点目は、成長企業の評価についてです。第3版では「Valuing Dot.coms」という章でこれが論じられていました。第3版が執筆されたのは、おそらくITバブルが崩壊する少し前かもしれませんが、上昇を続けるドットコム企業の株価を正当化するためにユニークな手法が登場したITバブル期を経て、本書の著者らは高成長企業の評価手法をいかに変化させているのでしょうか。

第6版ではこの点を「Valuing High-Growth Companies」という章で取り扱っています。2つの版を比べながら読んだところ、意外にも著者らの基本的な考え方は変わっていませんでした。どちらも、複数の成長シナリオを用意し、割引キャッシュフロー法(DCF)で評価しています。

カギとなる概念は「Start from the Future」です。将来、対象となる市場がどの程度まで拡大するか、その中で当該企業はどの程度のシェアを獲得できるか、その結果もたらされる売上高をどのようにマネタイズして利益につなげるか、これらを実行するために必要となる投資や資本はどの程度か…このようにして、起こり得る将来の姿を推定して、価値評価を行うのです。ITバブルの前後でも一貫したスタイルを提示している点に骨太な見識を感じさせられます。

企業価値向上のための経営戦略

最後に、第6版には第3版では存在しなかった一群の章が加わっていることに気づきます。「Managing for Value」(「企業価値向上のための経営戦略」といった意味でしょうか)というセクションの下に、「企業の事業ポートフォリオ戦略」、「パフォーマンスの管理法」、「M&A」、「事業分割」、「資本構成、配当、自己株式取得」、「投資家とのコミュニケーション」という6つの章が並んでいます。(なお、筆者が確認した限り、これらの章は2010年発行の第5版から登場しています。)

たとえば「企業の事業ポートフォリオ戦略」の章を読むと、「傘下にある各事業を保有するにあたって、自社が価値創出の観点から最良のオーナーであるかを分析し、事業ポートフォリオを構成すること」「(分析の結果、ある事業を分離売却することになったからといって)事業の分離は経営の失敗をあらわすものではない」と書いてあります。

 また、「投資家とのコミュニケーション」の章では、IR活動の効用として、「株価と本源的価値とのズレを大きくさせない」、「自社をよく理解している投資家のベースを築くことができる」、「経営陣が、投資家の意見を誤解してまずい戦略的決定を行うことを防止する」といった点が強調されています。つまり、これらの章はもっぱら企業経営者に向けて書かれている、と読めるのです。

 経営者と投資家の双方が考える企業価値

「おや?」と思いました。本書は従来、投資銀行家やファンドマネージャー、アナリスト等、金融機関に勤務する実務家が主要な読者層、と筆者は想定していたからです。しかし考えてみれば、マッキンゼーは経営コンサルティング会社ですから、株式を発行する企業のCEOやCFOが読んで有益な考え方の枠組みが論じられているのは当然といえます。そもそも企業価値の向上は、直接的には投資家ではなく経営者が担うものです。

とはいえ、2000年発行の第3版には全く存在しなかった項目が、今や一定の紙幅を費やして論じられているという事実には何らかの意味があるのではないでしょうか。想像するにそれは、経営者と株主が共通の知的基盤の上に立ち、それぞれの立場から企業価値向上について意見を交わさねばならない、という著者らの問題意識、またはそれを求める資本市場の潮流を反映したものではないでしょうか。そうだとすれば、企業と株主との本格的対話がようやく緒に就いた日本に投資する機関投資家の一員として、大いに勇気づけられることです。

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